分水路

慶応二年二月、反対村々の妨害があってはと、長岡、村上の両藩兵が警戒する中で、八王子村で工事が始った。工事は三月中に完成し、菊名等は四月江戸へ帰った。この工事によっても、中之口川の水害を完全に防止するには至らなかった。この経験が、明治期に入って鷲尾政直等が大河津分水に奔走する契機の一つになったことは間違い無い。この工事実施の際、菊名らは、大河津村地内に信濃川分水路を掘る事について、実地検分する任務もおびていた。同二年さらに、幕府は勘定方の前原八十郎、依田市左衛門らを派遣して、諸河川の附洲のうち、あらたに開発できそうな箇所を調査させた。信濃川は魚野川との合流点から海面まで、中之口川は八王子から金巻村まで、阿賀野川は信濃川との合流点から津川村辺まで調査することとした。こうした幕府の調査は、当然ながら、大河津分水工事の意図を持っていたと思われる。しかし政情が緊迫していくなかで幕府はすでにその余裕が無くなっていた。

分水路