工事計画

慶応元年九月、幕府の勘定方から実地検分のための役人が、三条に到着した。勘定方下役菊名仙太夫以下、同普請方五人で、三条町の大庄屋渋谷方に旅宿し、二〇日余滞在した。しかしながら、中之口川分流口をせばめることには、信濃川上流の桑名領や新発田領の村々から強い反対があった。これまで中之口川へ流れていた水が、自村へ向かい、水害に合う事を恐れたためである。新発田藩も中之口川の水害を信濃川縁辺の村に振り返るにすぎないと、反対むの意向をあきらかにし、同藩は中之口川の工事に反対することと、大河津分水のほうがむしろ急務であることを、幕府に建議した。これに対し、中之口川下流の村上藩村々と利害を同じくする長岡藩が、中之口川工事の緊急であることを建議した。けっきょく、慶応二年正月、幕府は中之口川の普請工事を国役として、越後全国の負担で幕府自身の手で、行う事を決定し、工事監督のため、菊名仙太夫等を再度派遣した。

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