決 壊

この時期に中之口川で、このように堤防決壊が頻発したのは、ひとつには川の様相の変化したことに原因があったようである。とくに、文政一一年の越後三条地震と弘化四年の信濃善光寺地震が、大きな影響を与えたと、みなされていた。こうして、あいつぐ水害を前にして、この時期になって享保期に本間屋数右衛門らによって発願された信濃川の分水計画が、再燃してきた。安政二年、江戸の住人兼子長兵衛と寺泊町大肝煎五十嵐文六、同町桑名藩用達川合勝之助、野積村庄屋星清五郎の四名が、大河津村付近で、信濃川分水路を掘削することを計画し、幕府勘定奉行所に願い出た。翌年、勘定奉行は長兵衛等をよびだして、計画の明細をただしたが、後になってこれを不許可とした。不許可になった理由は不明だが長兵衛は今度は村上藩江戸屋敷に、分水工事に協力してくれるよう訴えている。この願書の中には、諸藩が賛成していると延べているので、障害が主に村上藩領にあると見られていたのであろう。

決 壊