災 難

元治元年、大倉村で中之口川の堤防が決壊した。字万右衛門脇堤が七、八〇間くらいきれた。およそ一〇〇間ほども切所となった。大倉村の法順寺前の堤防決壊で、寺は御堂、庫裏とも残らず押し流された。樹木は寺屋敷に一本も残らなかった。さらに八月にはこの年二度目の中之口破堤があった。月潟村で堤防が決壊した。萱場村まで切れ込んだ。月潟村と萱場村の境にふせてあった掛口筒が抜けた。春秋二度の中之口川水害のため凶作となり、一〇月になって、正月までの冬の夫食米として、九八一人分二〇四石余もの支給を願い出たほどである。また同村地主も、翌年の収穫時まで、小作米の納入をくりのべ救済にあたった。慶応元年五月から大雨が続いたため、信濃川などで大洪水となった。下曲通村で中之口川の堤防が七、八〇間も決壊し、平島まで水がよせた。新発田領ではおよそ一〇万石の損害といわれた。三カ年の間に、じつに四度も堤防が決壊したため、各村々では上下困窮、村々離散、奥州かせぎ、袖乞など、目もあてられぬありさまとなった。天災とはいいながら、この先いかがなることかと日々太平を祈った。

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