救助米

万延二年には、村上藩三条役所に対し、この前年が田畑とも不作であること、米穀が高価で難渋者が生活に困っていることを理由に、藩からの救助米を給付してくれるよう願い出た。そしてさらにその翌年の文久二年になると、年貢の落ち込みはさらに大きくなった。大災害にみまわれたことを物語っている。この年の八月には中之口川の堤防が決壊したのであった。決壊の目撃者によると夕刻、尼僧二人がとおりかって、漏水が土手のうちへ吹き出すのを見ていたところ、たちまち二、三〇間もくずれ、二人とも水中へ落ち込み、かろうじて這い上がったという。それから激流が左右へかけこみ、一〇〇間ほどになって、水勢は滝のように流れ込み、西川通りは三、四日も堪水した。長岡領巻組の損害は米三八二〇俵余、曽根組の損害は一万一七五〇俵余であった。この時の水難場所を見ると、蛇、野鼠などで木の枝に上ったのは数しれず、笠木村の囲堤へは田が一枚流れよった。

救助米