嘉永四年の耕作時期になっても、生活に困る者があり、藩は粥を支給した。各村々に対し、大人一日二合ずつ、一五歳以下は一合勺ずつ支給した。ついで嘉永六年も村の年貢高は平年の八割程度である。これは日照りの影響によるものと思われる。この年は、五月から七月までほとんど雨も降らず、そのため飲料水にもことかく村もあった。蒲原地方の各地では雨乞いが行われた。新発田藩領の赤渋組でも組内の村々が共同して、雨乞いの使者を信州へ派遣した。他地域の例から推測して、信州戸隠神社に祈祷して、お水を頂いてきたものと考えられる。お水を頂いた使者が帰国すると、代表の名主と水守がつきそって、各村々では、名主、組頭が袴を着用し、笛、太鼓、法螺を鳴らして、村境まででむかえた。この後、安政から万延期にかけては、村の年貢高は一定で安定している。同村では幸い、大きな水害や不作は無かったもののようである。しかし安政四年には不作のため各村々が藩から米の手配を受けている。どこかの村では、不作に悩んでいたのである。