災 害

天保の飢饉といわれるような大凶作は、やがて終息へ向かうが、その後も災害が収まったわけではない。村には嘉永元年から明治ニ年までの、年々の年貢高をまとめた史料があり、これによって、同村での幕末期の年貢の変化を知ることができる。年貢としておさめた高が、ただちに、田畑の豊凶と一致するものではないが、密接な関係はある。また、同じ年でも地域によって差違もある。嘉永三年の村の年貢高は、平均の八割にすぎず、凶作とはいかないまでも、不作の年であったことが分かる。藩の記録によれば、この年の三月初旬には、信濃川や阿賀野川をはじめ、各河川で洪水が起った。また夏土用中にも大雨のため出水して、被害を受けたという。八月に、この夏の水害による同藩領の被害状況が報告されている。それによると、中之口組の下曲通村で、堤防が三七九間にわたって決壊し、山王村、大倉村、鳥原村の田畑が冠水した。水を落とす為、堤防を二〇間ほどきりはらった。藩は被災した村々へ食料米を給付した。

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