天保八年四月、新発田領赤渋組で、三月づけで幕府から出された大塩平八郎らの人相書が、大庄屋から回覧された。地域の近辺でも不穏な状況が生じている。米価の高騰により生活がたちゆかないので、押寄せようとの無名の回状が、沢海領平賀村から、新発田領横越組嘉木村まで到来した。付近の村々も不穏な状況なので、新発田藩は役人を出張させた。藩蔵のある沼垂町の警戒のため、役人四人を派遣した。同日、中之口組大庄屋長井三郎左衛門は、年番庄屋勤務のため新発田城下にいたが、新潟騒動のため戸頭村へ帰村した。同日不審火により三条町商人の家から出火し、戸数二五〇戸を全焼した。新発田領亀田町で小前層が米の安売り、手当米の要求をして騒動を起こした。麦、野菜の収穫時期となったので、前年のように手当てなどに頼らないよう、藩へ苦労をかけないようにせよと達した。さらに、この日は、桑名藩柏崎陣屋を、国学者生田万らが襲撃した。万らは柏崎の浜で自害し、一名は逃走した。新発田藩は生田万らの柏崎陣屋襲撃の報に接し、取り締まりのため沼垂へ中小姓三人を派遣した。六月には近領が騒がしいとの風聞に、沼垂へ足軽一〇人を派遣した。中小姓四人を回村させた。長く続いた幕府体制も、ここに動揺をみせるようになった。