天保八年、村上藩は領内の富豪に新穀がでるまで備米を命じた。二月新発田藩は数年来の凶作のため、勧農方に家中二名を任命し、農業指導にあたらせることとした。勧農方の下に、各組名主のうち二名から四名を勧農係に任命し、実地に農業指導にあたらせた。年番庄屋として新発田につめていた、中之口組大庄屋長井三郎左衛門から各組へ凶作の年で米穀の高騰した時節に、多くの米を消費せずに、大勢の飢えをしのぐ法が通知された。元大坂町奉行組与力大塩平八郎らが、窮民救済のため大阪市中で蜂起した。中之口組山崎村の百姓家へ強盗がはいり、家内三人を絞殺し、品物を奪い逃走した。藩では強盗が徘徊しているとの情報に、取り締まりの為中小姓一〇人を二手にわけ一手は沼垂から横越組、小吉郷中を、もう一手は岡方組、新津組、山通組から中之島組を廻村させることにした。三月新発田藩は酒造業者へ米同様に酒粕の他領への持ち出しを禁じた。困窮人一人につき二一〇文の飢米代銭を渡した。