天保四年には地震も起った。一〇月二六日、佐渡、羽前、庄内地方を襲う地震が発生した。日本海沿岸を二尺余の津波が襲った。地震による津波と西風のために、海水が新川を逆流し、西川の堤防をこえ槙尾村の畑にまで達するなど、海岸部を中心に損害をあたえた。村上領一五か村とともに、三潟水抜きをうけおった長岡領願人は、天保五年正月、出雲崎代官所へ三潟水抜工事の年延べ願いを提出した。その訳を前年のまれにみる凶作により、収穫もなく、昨秋から壮年の男女は他国へ出稼ぎに行った。残った者はその日の食物にもことかき、衣類、諸道具などを売り払い、食料の購入のたしにした。この時節になっては、ヒエ、麦などをはじめあらゆるものを食べつくし飢えにくるしんでいた。領主からの手当ても徐々におこなわれているが、さらに特別の手当てがなければ、春の作付けもどうなるかと心をいためていると窮状を訴えていた。この年、新発田藩は各組へ飢饉へそなえるため、かこい籾の実施を命じた。