天保二年、新発田藩領の中之口組や赤渋組では五月の中雨つづきで出水し、水穂が根ぐされしたため、作づけをしなおす種籾代および食糧米として、反あたり米三升を反から借りた。つづいて天保三年も、夏中長雨のために田畑が堪水し、収穫皆無もしくは減収となり、三潟水抜工事を請負った村上領一五か村では、村上藩からの手当てで困窮を凌いだ。天保四年は春中は気候も良かったが、五月中旬から七月末にかけて雨が降り続いた。雨がやんでも曇りがちで、日がさしたのはわずか数日であった。そのうえ冷気のため、時期はずれの綿入れを着用したり、重ね着をしなければならないほどで、各地で古今稀な凶作となった。黒鳥村でも夏中の雨続きで、三三町歩もの耕地が堪水し収穫がなく、村上藩への種籾の拝借を願い出た。蒲原郡では、一万九四〇九余の損害をこうむった。七月米価の高騰や、奥州をはじめ近領にまでおよぶ凶作で、米穀が品薄となっている事態に対処するため、日々の出費をおさえ、野菜をはじめ草木の根、葉など食糧の足しとなるものを貯えておくよう指示した。さらに秋の収穫量のみとおしがたつまで、米穀の領外移動を禁止した。また販売用の米を持っているものは、領内の町場で売り出すよう指示した。